日本のランニングターゲット射撃の歴史


1966年の秋、第39回世界射撃選手権ウィスバーデン大会に2名のR,T選手が日本から出場した。 この大会はI,S,S,FがR.Tを世界選手権必須種目と定めてからはじめての大会であり、 そしてこの時がわが国のR,T史の幕開けである。


 ライフル銃で移動的を撃つこの競技は最初、射距離100m、センターファイヤー弾使用のランニングディアー(雄鹿) であった。現在、このランニングディアーは1962年の第38回世界選手権カイロ大会以来行われなくなっている。危害 予防設備のため、射場建設費用がかかり過ぎるのが主な原因である。


 別に射距離50mの移動標的射撃としては、ランニングローバック(小形雄鹿)が制定されていたが、 第39回世界射撃選手権を機として猪像的を撃つランニングボアに改称されたのである。 しかし、弾薬はまだ22口径であればセンターファイヤーでもリムファイヤーでも自由であった。

 アメリカのシューター達はセンターファイヤーで出場し、日本を含めて他国の選手達は 全てリムファイヤーを使用していた。



 1970年アメリカ、フェニックスでの第40回世界射撃選手権大会には、日本からも 4名がチーム参加した。

 それまでは、草創の時代であったR,T種目もこのときから普及の 段階に入り、弾薬は22口径リムファイヤーに規定され照準器は全て最も有利な ライフルスコープを装備するようになった。

 記録は国際的にも低いものであったが、興味あるこの種目への注目は序々に高まりつつあった。


 I,S,S,Fのこの種目への肩入れは当初から大変なもので、1966年ウイスバーデン大会に使用された50mランニングボア射場は I,S,S,F本部の中庭に作られたほどである。

 そしてついにオリンピック組織委員会(I.O.C)は、この若いユニークな種目をオリンピック種目に加えることを定め、 1972年オリンピックミュンヘン大会に50mランニングボアが初登場したのである。

 50mランニングボア種目はその後、1988年ソウル大会まで続いたが、1992年バルセロナ大会より、エアライフル 10mランニングターゲットとなり今日に至っている。


 1966年第39回世界射撃選手権に初出場して以来、多くの国際大会に参加してきたが、 1990年第11回北京アジア競技大会で初の個人、団体と4位入賞を果たし、 2000年第9回アジア射撃選手権ランカウイ大会で女子団体2位、男子団体3位と、共にメダルを獲得した。


 ところで、わが国で最初、ランニングボア種目はクレー射撃協会、ライフル射撃協会のいずれの協会に 所属すべきか討議されてたが、当時、日本ライフル射撃協会には射場建設の目算がまったく 立たなかったので日本クレー射撃協会の所管になったのである。

 その結果、埼玉県所沢に射場建設の計画が起こり、わが国で最初の国際級2面のランニングボア 射場が誕生した。先に述べた第39回世界射撃選手権に日本クレー射撃協会からはじめて ランニングボア代表選手が派遣されたのは、この時である。

 それから5年間300名余りのR.T射手が所沢射場で腕を磨き、記録は上昇し順調な滑り出しに見えたが、 高速道路建設の為に惜しくも2面の国際射場は閉鎖となった。

 1971年、日本クレー射撃協会の傘下に日本ランニングターゲット射撃協会を結成し、 現在、日本クレー射撃協会ランニングターゲット部会となり活動している。


 ランニングターゲットの醍醐味は何と言っても移動標的をライフル弾で撃つダイナミックな早業にある。 逆にそのための難しさも当然起こってくる。かなりのスピードで通り過ぎる標的に対して構え・照準・撃発がほとんど 同時完成されなければならない待ったなしのゲームである。


 現在稼動中のランニングターゲット射場の一覧は、別ページをご覧下さい。